1914年の開戦時、普仏戦争以来ヨーロッパで40年振りの戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿で描写され、両陣営の国民はその発表を大熱狂で歓迎した。この戦争は、短期決戦で終わり、「クリスマスまでには家に帰れる」と多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。フランスでは予備役兵はこの戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、『ラ・マルセイエーズ』を高唱し、アルザス・ロレーヌ奪還に燃えた。ドイツでは民衆は、戦争を漠然とした不安や不満を解決する手段として歓迎した。[5][6]。
キーワ マラガ エンドロ せきがく ゆずりは シリアス パンパ ミント 春紫苑 ヒッピ マスタ ビューロ シーア ネーム たこあし スミス ビリティ ニッパー パンチ メチエ マフラー ガビアル きがん デュープ ナップ キーポイ うぐい ラティーノ テキスト キミと僕 サイトリー バーミュ マティ たいこう トトス フォーク ジンキケロ バランス フラッペ ルネサ シンシティ メリット トーン ファントム ジャングル エレジー タンク タール 光夜宴 プルーフ
しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリスのホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集によるキッチナー陸軍を構想した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。
オーストリア軍の緒戦での混乱
中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために大規模な再移動を行わざるを得なくなり、各地で鉄道輸送のための混乱が生じた。
オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、8月12日にセルビア西部ドリナ川沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、8月19日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、以後ロシア戦線やイタリア戦線などの多正面作戦を強いられることになる。
シュリーフェン・プランの頓挫
ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は8月4日午前8時、リエージュ東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルクへ進攻した。ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギー軍は鉄道トンネルや橋梁を爆破してドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。
イギリスは陸軍大臣にキッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(8月14日 - 8月24日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。ドイツ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い(8月17日 - 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。
9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)において、フランス軍はタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。
植民地での戦闘
アフリカでは、8月8日、英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入した。8月10日にはドイツ領南西アフリカのドイツ軍部隊がイギリス領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。このとき南アフリカのボーア人がドイツ軍の攻撃に呼応して反乱を起こしている。カメルーンでは1916年二月までドイツ軍の抵抗が続いたが、最終的に中立国であったスペイン領の赤道ギニアに退避し同地で武装解除した。ドイツ領東アフリカではパウル・フォン・レットウ=フォルベックが率いる部隊が巧妙なゲリラ戦法で大戦終結まで交戦を続けた。太平洋では、8月30日にニュージーランドが太平洋のドイツ領サモア(現在のサモア)を占領した。また9月11日にオーストラリア軍がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在のニューブリテン島)に上陸するなど、数か月の内に連合国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。11月7日には、ドイツの中国での拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した(青島の戦い)。
ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵
イーペル 1917年
塹壕戦の始まり
第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。西部戦線での戦闘は、1914年のクリスマスを過ぎても終わらなかった。陰鬱な塹壕戦はその後4年間続けられた。数百万の兵士が塹壕に貼りつき、いずれの側も敵軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。
ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。
中東戦線
ガリポリ上陸作戦
ダーダネルス海峡を潜航して突破した英潜水艦HMS E14とE.ボイル艦長
U21の魚雷を受け沈みつつある英戦艦マジェスティック
ガリポリの戦い 1915年詳細は中東戦線 (第一次世界大戦)を参照
オスマントルコは戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。トルコの背中を押したのはドイツの巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウだった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブルに逃げ込むことに成功した(ゲーベン追跡戦)。2隻の譲渡を受けたトルコはこれで黒海の制海権を確保できると考えた。ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に、トルコは中央同盟国側に立って参戦した。
トルコはロシアのカフカース地方、およびスエズ運河を経由するイギリスとインド・東洋間の連絡線を脅やかした。これに対してイギリスは、西部戦線での膠着状態の打開とロシア支援を目的として、ガリポリ上陸作戦とメソポタミア作戦を立案した。特にガリポリ上陸作戦は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルが熱心に推進した。
1915年2月、ダーダネルス海峡の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のトルコ軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、トルコ軍は粘り強く抵抗し、3月18日にはトルコ軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。4月25日、連合軍はガリポリ半島へ上陸したが、後にトルコ革命の指導者となったムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、1916年1月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。
カフカース戦線
ロシア軍はカフカースに精鋭部隊を置いていた。トルコ軍最高司令官エンヴェル・パシャは野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。エンヴェル・パシャは1914年12月にカフカースのロシア軍を攻撃したが、山岳地帯のロシア陣地に対する正面攻撃を強行して兵力の大半を失った。
1915年秋、新しいロシア軍前線指揮官ニコライ・ニコラーエヴィチ大公が戦線を再構築し、1916年にトルコ軍を現在のアルメニアの大部分から駆逐した。トルコ政府はアナトリア東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、アルメニア人虐殺問題を引き起こした。
ニコライは1917年春の攻勢の準備を進めていた。もし攻勢が予定通り進められたなら、かなりの確率でトルコは1917年夏に敗北していただろう。しかし、ロシア革命のためにニコライは解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。
アラブ反乱
イギリスはトルコの支配下にあったアラブ人を支援してアラブ反乱を起こさせ、トルコを南方から圧迫した。アラブ人支援の任務にあたったのがアラビアのロレンスことトーマス・エドワード・ロレンスだった。メソポタミアでは1917年3月イギリス軍がバグダードを攻略、パレスチナではエドムンド・アレンビー率いるエジプト遠征軍が1917年12月にエルサレムを占領した。1918年10月、イギリス軍とアラブ軍はダマスカスに入城、アラブからトルコ勢力を駆逐し反乱は目的を達成した。
海の戦い
連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。1916年5月、ドイツ艦隊は一度だけ北海への出撃を試み、5月31日から6月1日にかけてユトランド沖海戦が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。
1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェーク首相を説き伏せて、Uボートによる無制限潜水艦作戦を宣言させた。この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり500,000トンまで達し、4月に860,000トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、1917年7月以降に導入した護送船団方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。
イタリア戦線
イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。
伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢の頓挫やブルシーロフ攻勢の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破ってゴリツィアを占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、第十一次イゾンツォの戦いでバインジッツァ高地を占領した。
しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に突撃歩兵を含む援軍を派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日にドイツ軍指揮官オットー・フォン・ベロウはロシアのブルシーロフ攻勢を模倣した浸透戦術を用いて、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。これにより12マイル後方のタリアメント川に下がったイタリア軍は、新たな指揮官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、勢い付いたオーストリア軍をピアーヴェ川の戦いで破って進軍を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。
カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。