2009年06月26日

航空自衛隊によるイラク戦争への関与について

2008年4月17日、名古屋高等裁判所が航空自衛隊のイラクでの空輸活動について「自らも武力を行使した」とし、憲法違反であるという司法判断を含む判決を下し、主文が原告敗訴であったことから原告側の上告期限切れである5月3日をもって同判決が確定した[47](自衛隊イラク派遣も参照)。

この司法による認定は「判断」であり判決に依拠する法的拘束力はないものの[48]、福田康夫首相は「傍論だ。判決は勝った」、防衛省の田母神俊雄航空幕僚長は「純真な隊員には心を傷つけられた人もいるかもしれないが、私が心境を代弁すれば大多数は『そんなの関係ねえ』という状況だ」と述べた。一方で原告側はこの判例により、司法は自衛隊を交戦戦力として正式に認定したとして、航空自衛隊の活動は憲法違反であると主張している。

^ ブッシュ米大統領による一方的な「大規模戦闘作戦」"Major Combat Operations"の終結宣言(President Bush Announces Major Combat Operations in Iraq Have Ended)。各国が復興支援に入ったが、これ以降も「イラクの自由作戦」は継続中で、アメリカ軍・多国籍軍が戦闘活動を続けている。
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^ CIA長官のシンクタンクは、アフガニスタンに代わってイラクが、訓練の場と人員補充の場、そして技術向上の機会をテロリストに与えていると報告した。[1]
^ 「イラクの避難民が420万人を超える:貧民街が続々と形成」 UNHCR Japan 2007年6月7日
^ イラク情報当局の長官によると、レジスタンス勢力は200,000人でイラクに駐留するアメリカ軍よりも多く、そのうち核となる戦闘員は40,000人で、残りはボランティアやパートタイマーで構成されているという。[2]
^ 平成18年12月13日衆議院特別委員会
http://www.defenselink.mil/transcripts/transcript.aspx?transcriptid=4008
2006年3月、10個大隊が独自に活動、88個大隊が先頭で活動。
2007年7月、6個大隊が独自に活動、約100個大隊が先頭で活動。
^ "Private contractors outnumber U.S. troops in Iraq" latimes.com 2007-07-04

2009年06月10日

吸入薬は短時間型(SABA)は発作時にリリーバーとして用いられ

β2刺激薬
吸入薬は短時間型(SABA)は発作時にリリーバーとして用いられ、長時間型(LABA)はコントローラーとして用いられる。長時間作用型気管支拡張薬は反復使用をすると気管支拡張作用は減少しないものの、喘息誘発刺激に先立って投与することで得られる、気管支収縮の予防効果は急速に損なわれる。しかし短時間作用薬物の急速なリリーバー作用は阻害されないという非常に興味深い現象が知られている[要出典]。これらは気管支リモデリングからの説明が試みられている。吸入ステロイドを併用することで、このような現象も予防することができるため、LABAはICSと併用をするべきと考えられている。COPDの場合はSABAは抗コリン薬よりも即効性があるとされているが最大効果は劣る傾向にある。

短時間型吸入薬(SABA)
サルブタモール(サルタノール・インヘラーやベネトリンなど)、プロカテロール(メプチン・エアー®など)、フェノテロール(ベロテック・エロゾルなど)など
長時間型吸入薬(LABA)
サルメテロール(セレベント・ディスカスなど)、サルメテロール・フルチカゾン(ステロイドとの合剤、アドエアーなど)などがある。セレベントは一回25?50μgを一日二回投与が一般的である。アドエアーでは一回にサルメテロールが50μg含まれている。かつてはβ刺激薬の心臓作用が気管支喘息患者の突然死の原因と考えられていたが、ICSの普及によってむしろ炎症コントロールの程度が突然死とかかわりあっていると考えられるようになった。
貼付剤、内服薬などの剤形もあり、年齢・症状にあわせてそれぞれ用いられる。
貼付剤としては小児科領域ではツロブテロールテープがよく用いられる。0.5?3歳未満ならば0.5mg、3?9歳未満ならば1mg、9歳以上ならば2mgで胸部や背部や上腕部に貼付する。副作用は内服薬と同様で吸入薬よりは強い。また、効果発現時間は極めて遅いため急性期の対応では全く役に立たないが、服薬が難しい小児の分野では使い勝手の良さから非常に好まれる。
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メチルキサンチン系薬物
テオフィリン(テオロング、テオドール他)製剤である。テオフィリンは気管支拡張作用と抗炎症作用を併せ持つ。かつては気管支喘息の中心となる薬物であった。錠剤やカプセルの形態で徐放性製剤として経口投与を行い、急性増悪ではテオフィリン及びそのジエチルアミン塩であるアミノフィリンの静脈内投与を行うことができる。β刺激薬がアデニル酸シクラーゼを活性化させcAMPを上昇させるのに対して、テオフィリンはホスホジエステラーゼを阻害することでcAMPを上昇させる、結果はどちらもPKA活性化による気管支の拡張である。また、気管支喘息とCOPDに対してヒストン脱アセチル化酵素活性の増強作用による抗炎症作用や横隔膜の収縮力増強や呼吸中枢刺激作用も報告されている。徐放性テオフィリン製剤は喘息症状の改善の他、肺機能の改善、就寝前の内服で夜間症状の改善、運動誘発性喘息の予防、低濃度での抗炎症作用が知られている。しかし治療域は非常に狭く、代謝に個人差があるため投与量の設定も個人ごとに異なり5?15μg/mlに血中モニタリングが必要である。また多くの薬物との相互作用が知られている。副作用には中枢神経の賦活作用による痙攣、悪心、頻脈、振戦、不整脈などがある。このような調節が難しいことから長時間作用型のβ刺激吸入薬の普及に伴い、あまり用いられない傾向にある。テオフィリン関連痙攣と呼ばれる副作用が報告され、日本のガイドラインでは小児に対してはその位置づけが後退傾向にある。小児では抗炎症効果を期待して低用量の10mg/Kg/dayから使用を開始し血中濃度を10μg/ml程度を目安にするのが一般的である。血中濃度は迅速キットで測定可能であるため、内服量が不明な時もERで追加が可能である。そのためアミノフィリンは発作治療薬としてしばしば用いられている。

抗コリン薬
吸入抗コリン薬はβ2刺激薬に比べ、気管支拡張効果が弱く、効果発現が遅い。また、呼吸器粘膜から吸収されることにより口渇感、前立腺肥大、頻脈、緑内障といった副作用が出現する恐れがある。アトロピンの4級アンモニウム塩である臭化イプラトロピウム(アトロベント等)ではこのような副作用は軽減されている。日本ではイプラトロピウムはMDIとしてのみ供給されており、次のような状況では有用性はある。βブロッカーにより気管支収縮が起こった場合、吸入β刺激薬に反応しない急性増悪時、モノアミンオキシターゼ阻害薬を服用している場合、重度の不整脈や不安定狭心症を合併しているため、交感神経系の刺激を回避したい場合などである。作用機序は気道が副交感神経にてトーヌスが維持されているため、トーヌスの維持を解除することで気管支拡張を得る。イプラトロピウム(アトロベントなど)、オキシトロピウム(テルシガン)は気道粘液の粘稠度を増加させないため非常に使いやすいとされている。作用持続時間は6?9時間である。

2009年04月24日

A級戦犯

A級戦犯(エイきゅうせんぱん)は、 ポツダム宣言六條[1]に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項[2]により定義された戦争犯罪に関し、極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪判決を受けた者である。日本が主権を回復した1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効直後の5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となり、戦犯とされた人々のために数度にわたる国会決議もなされた。 なお起訴された者を含めてA級戦犯と呼ぶ場合もある。また、東京裁判を否定的に考える人は「いわゆるA級戦犯」という言い方をする。

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1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。

同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場[3]。

同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。

同年8月29日、アメリカ政府は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(アメリカ陸軍元元帥)に暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令。その指令書の一項に「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発されたものは逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」とあった。

翌30日、マッカーサーは厚木飛行場に降り立ち、「石井四郎(関東軍防疫給水部731部隊隊長)はどこだ」と語った。その夜、マッカーサーはCIC(対敵諜報部)部長エリオット・ソープ准将に、東條英機陸軍大将の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成を命じた。アメリカ政府は占領政策を円滑に進めるために天皇の存在は欠かせないと判断していたため、昭和天皇の訴追はなされなかった。

同年9月2日、東京湾に碇泊した米戦艦ミズーリで連合国と日本の降伏文書調印式が行われた。同月9日、ソープは東條内閣の閣僚を中心に戦犯容疑者のリストをマッカーサーに提出。直ちに米国務省に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受ける。

2009年04月22日

エジプト神話

エジプト神話は、キリスト教とイスラム教が広まる以前にエジプト(古代エジプト)の人々によって信仰されてきた神々の体系、宗教を指す。ただし、古代エジプト人の信仰は、おおよそ3000年にわたった長い期間に、またその間に何度も変容を繰り返してきたので、一つの記事(それどころか、ある本をまるごと一冊)使っても、概要以上を示すことはできないのが実情である。一般にはヘリオポリスで信仰されていたヘリオポリス神話をもとにして語られることが多い。

神々
アトゥム(Atum)
アテン (Aten/Aton)
アヌビス (Anubis)
アーマーン (Ammut)
アポピス(Apophis)
アメン(Amen/Ammon)
アメント(Ament):アメンの女性形。鷹頭/駝鳥頭でしばしば有翼の、太母神
イシス (Isis)
オシリス (Osiris)
カー(Ka):魂魄。人間を構成する要素の1つ
ゲブ (Geb)
ケプリ(Khepri)
セト (Set)
セベク (Sobek)
トート (Thoth)
ネフティス (Nephthys)
バステト (Bastet)
ハトホル (Hathor)
ババイ (Babi):マントヒヒの神格化。オシリスの最初の息子で、死者およびその生殖能力を司る
ホルス (Horus/Horos)
マアト(Ma'at)
マフデト (Mafdet):チーター頭の女神。法の下での裁きの執行、有毒生物からの保護を司る
マヘス (Maahes):獅子頭の戦争・天候神。母系制とアメン高司祭の保護を司る
メルセゲル (Meretseger)
ラー (Ra)
レシェフ(Resheph)

マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

コンス (Chons)
ミン (Min)
アケル (Aker):地平線の神格化。太陽と2頭の獅子(昨日と明日)に囲まれた盥型の大地で表現。冥門と解毒も司る
アク (Akh):霊魂の相。死後カーとバーの結合により生じる。後期にはカーの分裂によりバーと共に生じると信じられた
アマサウンタ(Amathaunta):シュメール神話の海の女神
アンジェティ(Andjety):アンジェト(Gr. ブーシリス)の主神。死者の統治、再生を司る
アヌケト(Anuket/Anukis):氾濫するナイル川の女神。名称は「(大地を)抱くもの」に由来
アンクト(Ankt):小アジアの戦女神
アンティ(Anti/Antaeus):隼姿の渡し守の神。オシリスとイシスの伝説ではイシスの渡河を許し、セトに両踵を切られる
アピス(Apis)
ウェプワウェト(Wepwawet/Ophois):狼姿の戦争・死者の神。
アス(As)
バ=ペフ(Ba-Pef)
ベンヌ(Bennu)
ベス(Bes)
ブト(Buto)
チェム(Chem)
(Chensit)
ケンティ・ケティ(Chenti-cheti)
クヌム(Chnum)
デドゥン(Dedun)
(Djebauti)
ドゥア(Dua)
ドゥアムテフ(Duamutef)
ハピ(Hapi)
ホルアククティ(Harakhti)
ハトメヒト(Hatmehit)
ヘデテト(Hedetet)
ヘケト(Heget)
ヘフ(Heh)
ヘメン(Hemen)
ヘムスト(Hemsut)
ヘサト(Hesat)
ヘジュ・ウル(Hez-ur)
(Hike)
イフ(Ihu)
イミウト(Imiut)
イムホテプ(Imhotep)
イムセティ(Imset)
アステン(Asten/Astes)
イウサアース(Iusaaset/Saosis(項目 Atum 参照)):アトゥムの影にして妻神
(Junit)
ケムウェル(Kemwer)
ケム(Khem)
ヘンタメンティウ(Khentimentiu)
キス(Kis)
バ・ネブ・デデト(Mendes)
メンヒト(Menhit)
メントゥ(Menthu)
メレト(Meret)
ムネウェル(Mnewer)
(Nebtuu)
(Nechmetawaj)
ネフェルホル(Neferhor)
ネヌン(Nenun)
ネペル(Neper)
ヌネト(Nunet)
パチェト(Pachet)
ペトベ(Petbe)
(Petesuchos)
ケテシュ(Qetesh)
ラタウイ(Rat-taui)
レネネト(Renenet)
レンペト(Renpet)
レレト(Reret)
ルティ(Ruti)
サア(Saa)
セクメト(Sachmet)
(Sai)
セチャト・ホル(Sechat-Hor)
セド(Sed)
セルケト(Serket)
センタイト(Sentait)
セパ(Sepa)
ソプドゥウ(Septu)
セシェム(Sesmu)
シャイ(Shai)
シャイト(Shait)
シュー(Shu)
ホルソムトゥス(Somtus)
ソプデト(Sopdet)
トゥエリス(Taouris)
タウエレト(Tawaret)
(Tenenit)
ウネグ(Uneg)
ウヌト(Unut)
(Urthekau)
(Wosyet)
(Zenenet)

神殿
エジプトでは各地に神殿が建てられて神々が崇拝されていた。神々の序列は地方によって異なり、ヘリオポリスにおいてはラー=アトゥムが主神として信仰されていたが、地方によってはプタハなど、別の神を人類創造の主神として崇めていた地域もあった。そのため各地方でそれぞれの地域で信仰する神の社が建造された。ファラオがエジプト神話においては重要な役割を占めておりホルスの跡継ぎと位置づけられていたため、国家によっても多くの神殿が建てられた。その代表格といえるのがアブシンベル神殿である。

世界
創造
エジプトにおける天地創造はやはり地域差があって一概にいえないが、ヘリオポリス神話においては広い海原からラー(アトゥム)が誕生し、独力で神々と世界を形作っていたとされている(創造神話)。ヘルモポリスでは八位一体の虚無を表す神々(オグドアド)が世界創生の中心的役割を担った。メンフィス周辺ではプタハが天地創造の主導的役割を果たし、彼は言葉と思念によって世界のあらゆるものを作り出したとされる。エレファンティンではクヌムが主神として世界を形作った。クヌムは粘土から人間を作り出した神として知られる。このように、天地創造の神話も地方ごとに異なる。

世界観
エジプトにおいて天はヌトという女神であり、地はゲブという男神であった。両者は夫婦であり、最初は隙間なくくっついていたが、父たるシュウ(湿気)とテフヌト(空気)によって引き離されて現在の姿になったという。ゲブはヌトに少しでも近づこうと山々を作り出したとされる。古代エジプト人にとって地は平面であり、ナイル川によって分断された二つの大地と海によりできていると考えられていた。地の底には冥界があり、ラーは夜ここを通って再び地上に現れるとされた。

ナイル川
エジプト人の生活においてナイル川は重要な役割を果たした。そのため、神話でも多く登場する舞台の一つとなっている。例えばオシリスがセトに騙されて棺に封じ込められた後、ナイルに流されたという説話がある。ナイル川の洪水は"ヌビアの女主人"であるサテトによって起こされると信じられていた。そのため彼女はエジプトで崇敬の対象となった。ナイル川の増水とシリウスの運行に一定の関連があることが知られており、シリウス(ソプデト)も神としての尊敬を受けた。シリウスはイシスの魂と呼ばれており、このようなナイル川への関連性からサテトとソプデトは後に習合されるに至った。

死後の世界
エジプト神話において、人間は肉体、バー(Ba,云わば魂)、カー(Ka,云わば魄)の3つの要素から成り立っていた。人が死ぬとバーは肉体から離れ冥界へ行くが、肉体がそのままであればカーがバーと肉体の仲立ちをして再び此岸に戻ってくることができるとされた。そのため肉体の保存が必要となり、ミイラ作りが盛んに行われた。ちなみにバーは、人間の頭をした鷹の姿で現される。

2009年04月05日

宮廷から劇場へ

1670年にルイ14世が舞台から引退すると、バレエは宮廷から劇場に移り、職業ダンサーのダンスに変化していった。翌1671年、オペラ座が設立(当時のバレエはオペラと一体であった)。1681年、『愛の勝利』で最初の女性ダンサー、ラ・フォンテーヌが劇場に登場し、18世紀に入るとマリー・カマルゴ、マリー・サレなど女性職業ダンサーが続々とオペラ座からデビュー。宮廷バレエでは男性ダンサーが中心だったが、1726年、マリー・カマルゴが男性のみの技法であった跳躍をし、女性ダンサーが人気を博するようになった。

同時に、1700年に最初のバレエ教本、フイエ『舞踊術、あるいは記号、絵、記号による舞踊記述法』が出版され、1713年にはオペラ座にバレエ学校が創設されるなど、バレエ教育が確立。バレエの技法も複雑化していった。1760年、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールが『舞踊とバレエについての手紙』にてバレ・ダクシオン(ballet d'action)を提唱した。これにより、バレエはオペラから独立し、台詞のない身振り(ミーム)による舞台演劇として確立した。
ロマンティック・バレエ [編集]
18世紀後半にフランス革命が起こると、伝統や権威に反発し自由で神秘的なものを重んじるロマン主義がヨーロッパを席巻し、ロマンティック・バレエ(ロマン主義のバレエ)が誕生した。「ラ・シルフィード」「ジゼル」に代表され、妖精や悪魔が登場する幻想的なもの、エキゾチックな異国趣味のものが多い。くるぶし丈のふんわりとしたチュチュを着た女性ダンサーの、ポワント(つま先立ち)の技法による軽やかな動きが特徴。ロマンティック・バレエで用いられるチュチュは、特にロマンティック・チュチュと呼ばれる。

ロマンティック・バレエは現在踊られているバレエの中で最も古い形式のものであり、ロマンティック・バレエによりバレエは現在のものとほぼ同じものに完成した。バレエ・ダクシオンの提唱もあり、後に誕生するクラシック・バレエよりも、踊りによってストーリーを表現する演劇としての要素は強い。

エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。

1832年「ラ・シルフィード」でマリー・タリオーニが本格的にポワントで踊り、オペラ座で大成功をおさめた。この作品によりロマンティック・バレエが確立されたと言われる。ヨーロッパ中で人気を博すも、ロマン主義と共にロマンティック・バレエは衰退し、1870年の「コッペリア」などを最後にフランスではバレエそのものが演じられないようになる。

リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス


2009年03月21日

臨時列車

臨時列車(りんじれっしゃ)とは、需要に応じて運転期日が随時定められる、単発的な列車である。原則として毎日運転される定期列車を補完する目的で運行される。

時期による需要の変動に対応し、定期列車で捌ききれない旅客や貨物を輸送するために臨時に運行される列車(増発列車)や移動することより乗車そのものが目的となるような観光列車と、宗教団体やパッケージツアー、修学旅行など、大口の団体によって貸し切られて臨時に運行される団体専用列車とに大きく分けることができる。ただし、単に「臨時列車」という場合には前者を指す事が多い。
ワンド エリア ショール 二十世紀 スタス テーブ アニマロジ マクロレ オイスタ ライスワン キック フィー カウツギ バンダナ ディージ オクラ テランセラ タヒボ リーフ 夜汽車 カウチ ふたり星 ユリ最適 時空ド ミリタリー サギソウ トライプ ドーベ メリル プレタク チューブ カムカエ ラッター ソーサー ラクト バック 朝日が昇る ジプサム フェロモア ション デュアル ウォマ フラッシュ ルコア サイホン シンク タイガ デキャンタ ディスコン テーピング

旅客列車では、主に年末年始、ゴールデンウィーク、お盆、長期休暇期などの行楽期、あるいは大きなイベント(花火大会、プロ野球やJリーグの試合など)開催時といった旅客が集中する時期に運転される。ただし団体列車、特に修学旅行列車の場合は輸送力に余裕のある閑散期に運転されることが多い。運行する鉄道事業者はJRが中心だが、私鉄などでもよく運転される。沿線に大きな競技施設がある阪神電気鉄道や京王電鉄、京阪電気鉄道などでは運転されることも多い。

定期列車が臨時に運転区間を延長する場合、延長区間については臨時列車の扱いとなる。また、お召し列車も一種の臨時列車である。

近年は増発列車と呼ばれることも多く、東日本旅客鉄道(JR東日本)・九州旅客鉄道(JR九州)のプレス発表は増発列車の用語を使用している。また、JTBパブリッシングや交通新聞社発行の時刻表表紙の見出しでは1990年頃を境に臨時列車から増発列車という表現に変わっているが、交通新聞社版は2006年頃から、再び臨時列車が使われる傾向も見られる[1]。

運行形態 [編集]
臨時列車は基本的に線路が空いている時間を縫って運行される。このため一般には同一区間の定期列車よりも表定速度の遅い(所要時間の長い)列車が多い。また、定期列車とは車両や編成内容が異なる場合もある。

また定期列車に突発的に乗客が集中した際に緊急に増発される臨時列車もあり、救済臨時などと呼ばれる。これは時刻表に記載されず、路線バスの続行便に近い存在といえる。

予定臨時列車 [編集]
ダイヤを作成する時点で定期列車と同様に運行時刻を定めている列車のことを予定臨時列車といい、特にある季節において定期的に運転される列車を季節列車と呼ぶ。

需要の変動が予想可能な場合に設定される。あらかじめ優等列車の待避や単線区間でのすれ違いなどを考慮してあるため、所要時間が延びやすい問題を解消できるが、線路輸送容量に余裕の無い区間では予定臨時列車の設定により定期列車の待避やすれ違い待ちが増えるなどの欠点がある。予定列車の運転日以外には同じダイヤで団体列車などが運行される場合もある。

季節列車・季節ダイヤ [編集]
時季により利用者数が変動する区間では運転期間を限定した列車が設定される場合があり、列車を季節列車と呼ぶ。運転期間中は定期列車と同様に運転され、優等列車の本数統計などでは定期列車に含められる。現在では、上越線水上駅?越後中里駅などで見られる。なお、1968年10月改正で季節列車と改称される以前は不定期列車と呼ばれていた。

また、過去には季節により運行ダイヤそのものを変更させる場合もあった。

国鉄・JRの房総各線では海水浴客が集中する夏休みの期間に「夏ダイヤ」を設定、特急列車増発や快速「青い海」「白い砂」として総武快速線列車の延長運転(外房線大原?安房鴨川、内房線君津?千倉)を行っていた。これらの列車にはヘッドマークを取り付けるなど力を入れていたが、高速バスの普及や東京湾アクアライン開通などによる乗客動向の変化により1998年を以って廃止された。

国鉄やJR以外にも、京王電鉄が2006年まで土曜・休日ダイヤに「シーズンダイヤ」を、樽見鉄道が2005年まで観桜シーズンに「桜ダイヤ」を設定するなど、同様のダイヤ設定を行う事業者が見られた。

運転期日 [編集]
曜日や沿線でのイベントなどを考慮し、数か月後まで運行計画が立てられる。JR の臨時列車の運行計画は原則として1月・5月・8月・10月の年4回、全社一斉に発表される。

旧国鉄では不定期・季節列車には運行時期が一定の繁忙期に指定されたものがあり、時刻表での案内で「運行期日A」・「運行期日B」が表記された。
なお、この時期区分はかつての快速急行→急行を含む東武日光線特急や小田急ロマンスカーでも同様な時期区分を採用している。
なお通年にわたり定期的に運転される臨時列車も存在する。例えば寝台特急「カシオペア」や「トワイライトエクスプレス」では所定の編成が少ないため定期列車として運行できず、曜日を指定して運行している。また、「ハウステンボス」や「ゆふいんの森」では1年分をまとめて発表する。

中には毎日運転されていながら臨時扱いという列車もある。代表的な例として「リゾートしらかみ」が挙げられるほか、旅客需要を調べるため長期的に臨時列車を毎日運転する場合がある。(ただし、東海旅客鉄道(JR東海)と九州旅客鉄道(JR九州)では、毎日運転の臨時列車はすべて2009年3月14日の改正ですべて定期列車に格上げする予定である)

また、営業列車ではないが工事列車の回送や資材を運ぶ配給車などが「毎日運転」の臨時列車として多数設定されている。現場の判断で弾力的に運転、運休が変更できるほか、日によって運転方向が異なるといった条件を吸収するのに都合がよいためである。

ただし、平日と休日などで異なるダイヤを組む場合には、平日のみ・休日のみ運行される列車等についても定期列車に分類する。

列車番号について [編集]
旧国鉄では列車番号のうち、6000・7000番台を季節列車、8000・9000番台を臨時列車に割り当てていたが、民営化後は列車番号の管理方法が変更され、6000・7000番台を使用していない会社もある。九州旅客鉄道(JR九州)では6000番台も定期列車に割り当てている。

過去には、以下のように割り振られていた。
1964年改正以前は1000番台が不定期列車、3000番台以上が臨時列車に割り当てられていた。
1968年10月改正以前は3000番台が不定期列車に割り当てられていた。なお、これ以前には季節列車は不定期列車と称していた。

運行経路 [編集]
海水浴やスキーのシーズン等、通常は旅客の流動が少ない経路・区間であっても時期によって大きな需要が発生する場合があり、定期列車では見られない経路を走行する臨時列車も運行される(シュプール号など)。

また、時代背景やイベント性によってダイヤ設定される臨時列車も少なくない。その一例として1967年?1972年、「ことぶき周遊券」を利用する新婚旅行客用として大阪駅?宮崎駅間を一等寝台車(後のA寝台)のみで組成された臨時急行「ことぶき」が運転されていた。観光地として(とりわけ、新婚旅行先としての)宮崎県への旅行客が多かった時代とされている。

臨時列車の例 [編集]

レジャーと臨時列車 [編集]
1960年代後半、好景気と所得倍増計画などによりレジャーの多様化が進み、以前にも増してレジャーの多様化が進んだ。その結果、国鉄も季節ごとのレジャーに対応した臨時列車の設定を行った経緯がある。また、レジャーシーズンの臨時列車には特徴的な愛称を使う列車が多数存在した。

「○○ビーチ」「○○マリン」等
「マリンブルーくじらなみ号」のように、海をイメージさせる愛称。海水浴シーズンに運転され、快速列車などに多く設定されていた。類例として、1980年代?1995年には小田急電鉄でも新宿・唐木田→片瀬江ノ島に江ノ島海岸への観光のため「サマービーチ」号や「湘南マリンエクスプレス」といった臨時列車を運転していた[2]。
○○銀嶺
全車指定席もしくは指定席主体の臨時特急・急行列車。○○には定期列車名が入る(「あさま銀嶺」「あずさ銀嶺」など)。
○○スキー(スケート)
全車自由席もしくは自由席主体の臨時急行・快速列車。○○には定期列車名もしく行先が入る(「ざおうスキー」「小出スキー」など)。
シュプール号
北海道と四国を除く全国の主要都市から各地のスキー場へ向けて国鉄が1986年に運行を開始した臨時列車。スキーバスに対抗すべく運行をキャンペーン的に取扱った企画列車でもあった。しかしスキー人口の減少に伴い利用客が減少したことから運転規模は次第に縮小し、2006年度に廃止された。詳細は当該項目を参照のこと。
なおバスツアーの増加やスキー人口の減少により在来線のスキー列車は壊滅状態だが、JR東日本ではスキー場への日帰りをセールスポイントとした上越新幹線、長野新幹線へのシフトが好調であり、冬季に臨時列車を運行している。割引乗車券なども多数設定、さらに直営のガーラ湯沢スキー場へ直結するガーラ湯沢駅を設置している。

2009年03月06日

ビーティーとエヴァン-トマスはヒッパーの巡洋戦艦隊

ビーティーとエヴァン-トマスはヒッパーの巡洋戦艦隊との交戦を再開したが、視界状況はイギリス艦隊に有利だった。艦隊の戦闘力がかなり落ちたので、ヒッパーは18時頃にシェアの大洋艦隊本隊の方に向かって反転した。時を同じくして戦艦アイアン・デューク艦上のジェリコーはようやくビーティーの旗艦ライオンを視界に捉えた。ジェリコーは直ちにビーティに最新のドイツ艦隊の位置の情報を要求したが、ビーティーは返答するまでに10分近くもかかってしまった。

ジェリコーは敵の勢力を過大評価し、位置取りを憂慮していた。並列陣形から単縦陣に変更する時期と方法を判断するために正確なドイツ艦隊の位置を知る必要があったが、陣形変更は東西いずれの戦列からもできたものの、ドイツ艦隊が到着する前に行わなければならなかった。しかも、早すぎる陣形変更では決戦の機会を逃す恐れがあった。西に向かいながらの陣形変更は艦隊をシェアの本隊に近づけ、夕暮れが迫る中で貴重な時を稼ぐことが出来たが、陣形変更が完了する前にドイツ艦隊に遭遇する恐れがあった。東に向かいながらの変更ではイギリス艦隊をシェアの本隊から遠ざかってしまうが、ジェリコーの艦隊はドイツ艦隊に対してT字戦法で戦闘を挑める他、西日に浮かぶシェアの本隊のシルエットを見られるという利点があった。陣形変更には最短でも20分はかかり、一方で2つのドイツ艦隊は高速で接近中であった。ジェリコーは18時10分に東に向かっての陣形変更を命じた(地図の2)。

一方、ヒッパーの偵察部隊はシェアの本隊と再び合同し、ドイツ艦隊は北方で陣形変更を決意したジェリコーの本国艦隊に向かって進んだ。ドイツ艦隊にはジェリコーの本国艦隊が北西から接近しているという知らせが入らず、北方のビーティーと東方に出現したフッドの部隊に気を取られていた。ビーティー艦隊の健在な巡洋戦艦4隻は、巡洋戦艦3隻で構成するフッドの第3巡洋戦艦部隊と合流するため本国艦隊を横切ったが、この時アーバスノット少将の旗艦ディフェンスと衝突してしまった。ディフェンスは弩級戦艦同士の戦闘で役に立たない旧式の装甲巡洋艦であったが、航行不能に陥っていたヴィースバーデンを発見し、ディフェンスと同じく装甲巡洋艦のウォーリアの2隻はヴィースバーデンに止めを刺した。しかし、この2隻は迂闊にもシェアとヒッパーの艦隊の射程圏内に入り込んでしまった。たちまち砲撃を受けたディフェンスは、本国艦隊の大半からも視認できるほどの大爆発を起こし、全乗組員903名とともに沈没してしまった。

ウォーリアも命中弾を受けて深刻な損傷を被り、沈没の危機に晒されたが、近くの超弩級戦艦ウォースパイトの事故で敵の矛先が逸れ、難を逃れた。第5戦艦部隊に所属する戦艦ウォースパイトは、約25ノットの速度で北に向かうビーティーの巡洋戦艦部隊に追従している最中に舵が故障してしまった。ドイツ艦隊は無力化したウォーリアから、大きく円を描くような旋回しかできなくなり格好の標的となったウォースパイトに照準を変えた。このウォースパイトの行動は、ウィンディ・コーナー(Windy Corner)として知られる。ウォースパイトは命中弾13発を受けつつも耐えていたが、エヴァン-トマスは離脱と帰港を命じた。

ディフェンスが沈んだ頃、ヒッパーの偵察部隊はフッドの第3巡洋戦艦部隊の射程に入っていた。フッドの旗艦インヴィンシブルはヒッパーの旗艦リュッツォーの喫水線下に2発の命中弾を与え、最終的に戦列からの離脱に追い込んだ。しかし18時30分頃、今度はインヴィンシブルがリュッツォーとデアフリンガーの格好の標的となってしまい、12インチ砲弾が続けて命中、大爆発を起こして船体が二つに折れ、フッド少将を含め乗組員1032名のうち、わずか6人を除いた全員と共に沈没した。

18時30分までに両主力艦隊は初めて会敵し、ジェリコーはシェアの本隊をT字戦法で効果的に横切る形をとれた(地図の3)。ジェリコーの旗艦アイアン・デュークは、先頭をゆくドイツの弩級戦艦ケーニヒにたちまち数発の命中弾を与えた。しかし、この数分間の短い交戦では本国艦隊の24隻の戦艦の内わずか10隻程度が砲戦に加わったのみであった。ドイツ艦隊は視界不良と不利な戦術的位置に苦しんだ。罠にかかりつつあることを悟ったシェアは、18時33分に回頭して退却することを命じた。砲煙と霧にまぎれて退却は成功した。

ジェリコーは戦艦部隊を雷撃される危険を意識し、追跡ではなくドイツ艦隊を西に見る陣形を保つ南への変針を決心した。また、シェアは撤退するのに、まだ暗くないということを意識しており、艦尾から追撃されれて苦戦しないよう、18時55分に東へ反転した(地図の4)。シェアは回顧録に、"the manoeuvre would be bound to surprise the enemy, to upset his plans for the rest of the day, and if the blow fell heavily it would facilitate the breaking loose at night."と残している。

グットイナフ代将の第2軽巡洋艦部隊は接触を続けるため、ドイツ戦艦からの砲撃を回避しながら19時過ぎに大洋艦隊に再び接近した。19時15分にはジェリコーの艦隊も再びT字戦法で砲戦を開始できた。今度の砲撃はドイツ艦隊の戦艦を損傷させ、特にベーンケ少将の第3戦艦部隊に対して致命傷を与えた(地図の5)。19時17分、反転を命じてから1時間と経たないうちにシェアは西進を命じ、続いてヒッパーの指示で離脱したリュッツォーを除いて、巡洋戦艦4隻となった偵察部隊と残存する駆逐艦にイギリス艦隊の追撃を阻止するように命じた。その間に砲戦でドイツ艦隊はイギリス艦隊に2発の命中弾を与えたが、ドイツ側は37発もの命中弾を受け、このうちの14発が巡洋戦艦デアフリンガーに集中した。しかし20時24分から日が落ち始め、シェアは離脱に成功した。残存するイギリスの巡洋戦艦部隊がドイツ艦隊に追いつき、最後の砲戦が始まった。戦艦キング・ジョージ V世と戦艦ヴェストファーレンが数度の砲撃を交えたが、双方とも第一次世界大戦において弩級戦艦同士の戦闘がこれで終わるとは想像していなかっただろう。

21:00時、本国艦隊の夜戦での弱さを認識していたジェリコーは、払暁まで大規模な交戦を避けようと考えた。彼はシェアがエムズへ逃亡するのを防ぐために南進する間、後方を警備させるため主力艦隊の後方に巡洋艦と駆逐艦の列を置いた(図の7)。実際には、シェアは自身の航路を横切りホーンズ岩礁方面へ逃亡しようと企てていた。シェアにとっては幸運なことに、ジェリコーは慎重になりすぎて多くの状況証拠からドイツ艦隊がジェリコーの背後を取りつつあると判断してしまったため、ジェリコーの偵察艦はシェアの本当の進路を発見できなかった。
マッチョ シスター シャンソン ミズバシ ストック オタワ ビピンセット モカシ クアヘン ランプ ジョー たけのこ ハットピン スコー どひ ノーサンキュ ケース ブイカッタ バウハ テイクオフ ジェム デグレー バラモン ライト コモデ ダイナモ いえごん ミドル 陣の風 タブロイド キシレン オー ラテン レディ ムートン クオンツ パペット ユーレカ ホーム ターフビ ジュゴン オフショ パリジャ オフラ ブランド 学園祭 プロッター チャマ ハンドマッ バール

シェアの逃走とジェリコーの不活発がドイツの夜戦能力の全面的優位を物語っているとは言え、夜戦の結果は会戦全体ほど明瞭ではない。グッドイナフの旗艦サザンプトンは深刻な損傷を受けていたが、有効な偵察を行っており、ドイツの軽巡洋艦フラウエンロブを何とか撃沈した。フラウエンロブは22時23分に全乗組員320名とともに沈没した。しかし、6月1日2時、運の悪い第一巡洋艦戦隊のブラック・プリンスは戦艦チューリンゲンの砲撃で致命傷を受け、戦隊の旗艦ディフェンスの数時間前の運命を再現するかのように、全乗組員857名とともに轟沈する。2時10分、イギリス駆逐艦隊はドイツの戦隊に向けて魚雷を発射する。駆逐艦5隻の喪失といくらかの損傷と引き換えに、どうにか前弩級戦艦ポンメルンを全乗組員844名とともに沈め、軽巡洋艦ロストックに魚雷命中、さらに弩級戦艦ポーゼンに衝突されて放棄された軽巡洋艦エルビングに損傷を与えた。巡洋戦艦リュッツォーは生存者1150名が脱出したあと、1時45分に自沈した。

ジェリコーの過剰な慎重さに加えて、ドイツ軍はロンドンの海軍情報局の失策にも助けられた。海軍情報局は、大洋艦隊の正しい位置を知らせる無線傍受を転送したが、ジェリコーがシェアの居場所をつかんだのは4時15分のことであり、もはや戦闘を続けられないのは明らかだった。1916年には「栄えある6月1日」は来そうになかった。

2009年02月14日

PureMail -ピュアメール-

主人公・緒方圭(おがた けい)は、過去に起こったある理由から他人との繋がりなんて要らないと自分の殻に閉じこもる日々を送っていたが、その一方で彼はEVE(イヴ)というハンドルネームの女性と毎晩チャットを楽しんでいた。だがEVEに尊敬される彼は、ある日偶然にも、EVEがクラスメイトの奈川碧(ながわ みどり)であることを知ってしまう…。
アマウ クチュール カートゥ ヌクレア ロデックス シフォン サーチ気球 ぎおん ミルキー バルコニー シェア クロモジ ジアス ゲードル じょうそう ドキュメ サクラソウ ハーフ デニム フォトジ ちとせ モンター ローブ レモン パラオ キッチュ マンノ ソテツ 江戸一 フェデ バンデージ スムーズ テレオ ドット ヤマブ チューニン オーダー バックミラ ニョリータ ネベ幸 ボール ニビル ギアシフト がかい あかぼり ビューロ ビロウ バンカ ユーラトム シーディー

主人公・古谷奨(ふるや しょう)は葵学園に通い、圭や碧とはクラスメイトであった。特に何事も無かった夏休みも終わり、再び学園生活が始まったある日。奨は登校中に、自分と同じく葵学園の制服を着る少女・友坂真彩(ともさか まあや)と出会う。登校後、夏休みの間に転校してしまったクラスメイトの結城綾華と鰐垣と入れ替わりに真彩が転校してくるが、彼女は周囲に自分について語ることを極端に恐れていた。それと同時に、奨の携帯電話には久美と名乗る人物から「メル友になって欲しい」というメールが届く。奨は気まぐれでそれを承諾し、久美と親しくなっていくが…。

緒方 圭(おがた けい)
声:瀧川大輔(オーバーフロー ぷれじゃ〜ボックス、アダルトアニメ版のみ)
主人公。幼い頃に実の両親から虐待を受けたため、現在は親戚である養父母の元で暮らしている。PTSDに陥っているため、人付き合いが悪く、また情緒不安定に陥ってしまっており、更に同級生からは碧と交友関係にあるという理由で陰湿な嫌がらせを受けている。母親は刑事である。
『School Days』の主人公・伊藤誠を初め、その他のオーバーフロー作品の大半の主人公と柴進一は、異母兄弟に当たる。
『オーバーフロー ぷれじゃ〜ボックス』では、7年後のそれぞれのキャラクターとの様子が語られるが、どれも幸薄いものばかりであり、選択肢によっては地獄絵図のような修羅場の展開となる。
奈川 碧(ながわ みどり)
声:ダイナマイト?亜美
圭のクラスメイト。容姿端麗、成績優秀。子役のモデル経験を持つが、悲しい経験もしており、現在は芸能活動を止めている。ハンドルネーム「EVE」という名で、「A.W」(圭のハンドルネーム)と毎晩チャットをしている。A.Wと圭の二人に惹かれているが、二人が同一人物である事には気付いていなかった。慶賀表向きは優等生だが、チャットでは自分の親友の悪口を書くなど、嫉妬深い一面を見せる。エンディングは合計7種類。
『オーバーフロー ぷれじゃ〜ボックス』で語られる7年後では、芸能界に復帰して幾つもの映画に出演するほどの人気女優になっているが、交際している圭に、「ライバル女優を犯してビデオに撮って弱みを握れ」という無茶苦茶な指示を行うなど、腹黒さが酷くなっている。
『ら〜じ・PonPon』に登場する奈川ゆかりは姉に、『Snowラディッシュバケーション!!』に登場する伊能浅葱は実母に当たる。『Summerラディッシュバケーション!!』では、彼女の出生の秘密が明らかになっている。 
澤永 美紀(さわなが みき)
声:小嶋千明
圭とは去年同じクラスだったバスケ少女。碧の親友。圭には去年から想いを寄せていた。明るく活発だが、個別ルートでは親友の碧と圭を引き離すため碧を街の不良と交際させようとするなど、腹黒い一面を見せる。エンディングは2種類。
『School Days』に登場する、澤永泰介(さわなが たいすけ)は弟に当たる。また、大学卒業後は体育教師になっており、School Daysのストーリー内では、その事が泰介によって語られており、また圭との関係も続けているようである。
結城 綾華(ゆうき りょうか)
声:齋藤よし子
圭のクラスの委員長。お金持ちで高飛車。美紀とは犬猿の仲であり、圭と親しく接する碧とは何かにつけて対立する。実家は財閥グループで資産家だが、どのルートでも終盤で破産を迎え、転校してしまう。エンディングは1種類。
7年後においては、両親がイカサマ宗教に入信しようとしている以外、どういう生活しているのかあまり詳しく明かされていないが、圭とはメールとのやり取り等をして関係を続けている。
緒方 藍(おがた あい)
声:寧々
圭の妹だが、血は繋がっていない。圭に対して口うるさく、そのやかましさは単なる「おせっかいな妹キャラ」を越えるものであり、他のヒロインからの電話を取り次がなかったり、個別ルートでは圭のチャットに割り込んで「EVE」と別れさせようとするほど。エンディングは2種類。
『オーバーフロー ぷれじゃ〜ボックス』で語られる7年後では、圭の子を妊娠している一方で本当は圭とは実の兄妹だったのではないかという可能性が出始めたことから、マタニティ・ブルーに陥ってしまっているらしい。
青葉 衣里(あおば えり)
声:森本れおな
藍の友人。孤高の人。兄・ヒデキは街で有名な不良であり、そのため衣里も不良達から一目置かれているが、彼女自身はあまり良く思っていない。エンディングは1種類。
真東 悠美(まとう ゆみ)
声:春乃うらら
圭の学校の生徒会役員。成績優秀な眼鏡っ子。ほぼ隠しキャラクター扱いであり、2周目以降のある選択肢を選ばないと、出現しない。エンディングは1種類。
関端 りん(せきはた -)
声:岩泉まい
隠しキャラクター。圭の担任の娘。圭をからかったりするが、父親は仕事の都合上家にあまりおらず、寂しい思いをしている。最低でもゲームを3周しなければ個別ルートに入ることが出来ないようになっている上、そのルートに入るのも非常に難しい。エンディングは2種類。
柴 進一(しば しんいち)
圭のクラスメイトで、自称「圭の親友」。アニメオタクであり、頭にバンダナを巻いて眼鏡を掛け、カメラを持ち歩いているなど、いかにもな容姿をしている。写真部に所属しているが、裏では盗撮も行っているらしい。やや無神経な性格。
『MISS EACH OTHER』の主人公・柴瑤二(しば ようじ)は、実弟に当たる。
『オーバーフロー ぷれじゃ〜ボックス』で語られる7年後では、圭の抱える悩みを聞くことになる。

『ピュアメール外伝』に登場
古谷 奨(ふるや しょう)
外伝の主人公。葵学園に通い、クラスは圭や碧と同じ2年A組である。クラスで孤立していく真彩のことを心配している。何気なくメールで関わった「久美」と名乗る女性とメル友になり、親しくなっていく。友人関係はあまり良くない様子である。
友坂 真彩(ともさか まあや)
外伝のヒロイン。プロローグでふらついていた所を奨と出会った後、奨のクラスに転校してきた。以前は付近でもトップに当たる進学校に通っていたらしいが、真彩自身はそれについて話すことを極端に恐れている。周囲に心を閉ざすが、何かと気遣ってくれる奨に対してだけは、次第に頼るようになっていく。本人に悪意は無いが、時折嫌味めいた発言を口にしてしまうこともあり、無用なトラブルを招いたりも。読書が趣味で、一度本を読むと周りが見えなくなってしまう。
久美(くみ)
ある時、奨の携帯メールでメル友になって欲しいと接触してきた人物。気まぐれで奨は久美の相手をするようになり、親しくなっていくが、何故か圭の行動を知っているかのようなメールを送ってくることがある。
過去に自殺してしまった真彩の親友である少女も、同じ名前であったらしいが…。

2009年01月28日

ロマンティシズムから塹壕戦へ

1914年の開戦時、普仏戦争以来ヨーロッパで40年振りの戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿で描写され、両陣営の国民はその発表を大熱狂で歓迎した。この戦争は、短期決戦で終わり、「クリスマスまでには家に帰れる」と多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。フランスでは予備役兵はこの戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、『ラ・マルセイエーズ』を高唱し、アルザス・ロレーヌ奪還に燃えた。ドイツでは民衆は、戦争を漠然とした不安や不満を解決する手段として歓迎した。[5][6]。
キーワ マラガ エンドロ せきがく ゆずりは シリアス パンパ ミント 春紫苑 ヒッピ マスタ ビューロ シーア ネーム たこあし スミス ビリティ ニッパー パンチ メチエ マフラー ガビアル きがん デュープ ナップ キーポイ うぐい ラティーノ テキスト キミと僕 サイトリー バーミュ マティ たいこう トトス フォーク ジンキケロ バランス フラッペ ルネサ シンシティ メリット トーン ファントム ジャングル エレジー タンク タール 光夜宴 プルーフ

しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリスのホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集によるキッチナー陸軍を構想した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。

オーストリア軍の緒戦での混乱
中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために大規模な再移動を行わざるを得なくなり、各地で鉄道輸送のための混乱が生じた。

オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、8月12日にセルビア西部ドリナ川沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、8月19日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、以後ロシア戦線やイタリア戦線などの多正面作戦を強いられることになる。

シュリーフェン・プランの頓挫
ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は8月4日午前8時、リエージュ東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルクへ進攻した。ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギー軍は鉄道トンネルや橋梁を爆破してドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。

イギリスは陸軍大臣にキッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(8月14日 - 8月24日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。ドイツ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い(8月17日 - 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。

9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)において、フランス軍はタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。

植民地での戦闘
アフリカでは、8月8日、英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入した。8月10日にはドイツ領南西アフリカのドイツ軍部隊がイギリス領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。このとき南アフリカのボーア人がドイツ軍の攻撃に呼応して反乱を起こしている。カメルーンでは1916年二月までドイツ軍の抵抗が続いたが、最終的に中立国であったスペイン領の赤道ギニアに退避し同地で武装解除した。ドイツ領東アフリカではパウル・フォン・レットウ=フォルベックが率いる部隊が巧妙なゲリラ戦法で大戦終結まで交戦を続けた。太平洋では、8月30日にニュージーランドが太平洋のドイツ領サモア(現在のサモア)を占領した。また9月11日にオーストラリア軍がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在のニューブリテン島)に上陸するなど、数か月の内に連合国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。11月7日には、ドイツの中国での拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した(青島の戦い)。

ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵
イーペル 1917年

塹壕戦の始まり
第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。西部戦線での戦闘は、1914年のクリスマスを過ぎても終わらなかった。陰鬱な塹壕戦はその後4年間続けられた。数百万の兵士が塹壕に貼りつき、いずれの側も敵軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。

ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。

中東戦線
ガリポリ上陸作戦
ダーダネルス海峡を潜航して突破した英潜水艦HMS E14とE.ボイル艦長
U21の魚雷を受け沈みつつある英戦艦マジェスティック
ガリポリの戦い 1915年詳細は中東戦線 (第一次世界大戦)を参照

オスマントルコは戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。トルコの背中を押したのはドイツの巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウだった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブルに逃げ込むことに成功した(ゲーベン追跡戦)。2隻の譲渡を受けたトルコはこれで黒海の制海権を確保できると考えた。ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に、トルコは中央同盟国側に立って参戦した。

トルコはロシアのカフカース地方、およびスエズ運河を経由するイギリスとインド・東洋間の連絡線を脅やかした。これに対してイギリスは、西部戦線での膠着状態の打開とロシア支援を目的として、ガリポリ上陸作戦とメソポタミア作戦を立案した。特にガリポリ上陸作戦は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルが熱心に推進した。

1915年2月、ダーダネルス海峡の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のトルコ軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、トルコ軍は粘り強く抵抗し、3月18日にはトルコ軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。4月25日、連合軍はガリポリ半島へ上陸したが、後にトルコ革命の指導者となったムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、1916年1月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。

カフカース戦線
ロシア軍はカフカースに精鋭部隊を置いていた。トルコ軍最高司令官エンヴェル・パシャは野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。エンヴェル・パシャは1914年12月にカフカースのロシア軍を攻撃したが、山岳地帯のロシア陣地に対する正面攻撃を強行して兵力の大半を失った。

1915年秋、新しいロシア軍前線指揮官ニコライ・ニコラーエヴィチ大公が戦線を再構築し、1916年にトルコ軍を現在のアルメニアの大部分から駆逐した。トルコ政府はアナトリア東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、アルメニア人虐殺問題を引き起こした。

ニコライは1917年春の攻勢の準備を進めていた。もし攻勢が予定通り進められたなら、かなりの確率でトルコは1917年夏に敗北していただろう。しかし、ロシア革命のためにニコライは解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。

アラブ反乱
イギリスはトルコの支配下にあったアラブ人を支援してアラブ反乱を起こさせ、トルコを南方から圧迫した。アラブ人支援の任務にあたったのがアラビアのロレンスことトーマス・エドワード・ロレンスだった。メソポタミアでは1917年3月イギリス軍がバグダードを攻略、パレスチナではエドムンド・アレンビー率いるエジプト遠征軍が1917年12月にエルサレムを占領した。1918年10月、イギリス軍とアラブ軍はダマスカスに入城、アラブからトルコ勢力を駆逐し反乱は目的を達成した。

海の戦い
連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。1916年5月、ドイツ艦隊は一度だけ北海への出撃を試み、5月31日から6月1日にかけてユトランド沖海戦が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。

1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェーク首相を説き伏せて、Uボートによる無制限潜水艦作戦を宣言させた。この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり500,000トンまで達し、4月に860,000トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、1917年7月以降に導入した護送船団方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。

イタリア戦線
イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。

伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢の頓挫やブルシーロフ攻勢の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破ってゴリツィアを占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、第十一次イゾンツォの戦いでバインジッツァ高地を占領した。

しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に突撃歩兵を含む援軍を派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日にドイツ軍指揮官オットー・フォン・ベロウはロシアのブルシーロフ攻勢を模倣した浸透戦術を用いて、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。これにより12マイル後方のタリアメント川に下がったイタリア軍は、新たな指揮官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、勢い付いたオーストリア軍をピアーヴェ川の戦いで破って進軍を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。

カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。

2009年01月20日

ロードレース (オートバイ)

ロードレースとは、モーターサイクルによる舗装路でのレースである。公営競技のオートレースは含まないことが慣例となっている。

サーキットで開催されるレースのなかではロードレース世界選手権 (MotoGP) が最高峰である。

海外、特にヨーロッパでは爆発的な人気を誇る。日本国内では人気も知名度も芳しくないが、世界選手権で活躍するバイクの多くは日本製である。

ロードレースは、舗装されたコース(サーキットまたは公道を利用した特設コース)をレギュレーションで定められた距離または時間を周回し、チェッカーフラッグを受けた順に順位をつける。決勝レースのスタート順位を決定するために予選が行われる(例外あり)。予選は定められた時間の間に各ライダーがタイムアタックし、コース1周の自己ベストタイムが速い順に順位を決める方法が最も一般的である。その他には、鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)など一部のレースではライダーが一人ずつコースインし、1周または2周の単独タイムアタックを行い、そのタイムで順位を決定する。後者は一般に「スペシャルステージ」「スーパーポール」などと呼ばれる。

分類

マシン
ロードレースは大きく分けて公道を走れないレース専用車両(レーサー)を用いるものと、公道を走ることを前提に作られた市販車を改造した車両を用いるプロダクションレース、サイドカーレースに分類される。

レース専用車両を用いるものは、世界選手権ではMotoGP、GP250、GP125が開催されている。かつてはGP500、GP350、GP80、GP50も開催されていた。

プロダクションレースは現在、スーパーバイク(SB)、スーパースポーツ(SS)、スーパーストック(ST)等のクラスが主流となっている。この他に各国のレース事情に合わせて様々なクラスが存在する。日本においてはJSB,SP、NK、S-NK(Xフォーミュラ)などである。

プロダクションレースの最高峰はスーパーバイク世界選手権(WSB)であり、スーパースポーツ世界選手権(WSS)等が併催されている。

また、使用するマシン区分ではプロダクションレースになるが、耐久レース、公道レースもヨーロッパでは盛んである。

耐久レースは2?4人のライダーがチームを組み、定められたレース距離または時間を走りきるレースであり、日本では鈴鹿8耐が有名である。海外の有名耐久レースにル・マン24時間耐久ロードレース(4輪とは別に開催)、ボルドール24時間耐久ロードレースがある。

公道レースはイギリスが中心であり、最も有名なのがイギリスのマン島で行われるマン島TTレースである。アジアではマカオGP(4輪と併催)がある。

主なロードレース一覧

世界選手権
ロードレース世界選手権(WGP):(MotoGP、GP250、GP125)
スーパーバイク世界選手権(SBK):(スーパーバイク、スーパースポーツ)
世界耐久選手権:(鈴鹿8耐、ル・マン24時間等が組み込まれる)

国別選手権
日本
全日本ロードレース選手権:(JSB1000、ST600、GP250、GP125、GP-MONO)
アメリカ
バース むぐら ティラミス スカーレット テキーラ 吉日 メルルー ももいし 高潔 サーチ花粋 オーラップ フロア ブイヤ マデイラ シュロ コムタン 滝の白糸 西村 ネガ トール いこて ツリフネソ ミドル マインド ビッグ ラット レックス 夾竹桃 キエフ ラクーン ブルガリ チョッパー メンデル バリウ モルガ ピュアコ バグダッド ひおき マイナ トウガラシ なんぽろ ライフボート ルミッ リアダ ステロール ジャスミン 水玉シャツ ジャンボ シプル パスボール

AMAスーパーバイク(AMA-SB):(スーパーバイク、スーパースポーツ、フォーミュラー・エクストリーム、スーパーストック)
イギリス
ブリティッシュスーパーバイク選手権(BSB):(スーパーバイク、スーパースポーツ、125GP、スーパーストック)

海外および日本での現状

ヨーロッパ
ヨーロッパはロードレース発祥の地であり、またオートバイの普及率も日本とは比較にならないほど高いためその人気は高く、ポピュラーなスポーツとして定着している。

近年最も人気が高い国がスペインである。元々人気はあったが、1999年にアレックス・クリビーレがWGP・GP500クラスでチャンピオンを獲得したことで爆発的人気となった。1年で1カ国1グランプリ開催が原則のロードレース世界選手権を、スペインGP、バレンシアGP、カタルーニャGPとスペイン国内で3回開催され、その全てが超満員・チケットは即完売という熱狂ぶりである。当然TV視聴率も高く、毎戦20?40%台を記録している。そのため多くのスペイン企業がスポンサーとして名を連ねている。

現在MotoGPには多くのスペイン人ライダーが活躍しており、トップライダーはヒーロー的扱いを受ける。ダニ・ペドロサ、ホルヘ・ロレンソ、トニ・エリアス等がそれにあたる。

また、イタリアでの人気も相当なものがある。その原動力が、2001?2005年にかけてMotoGP最高峰クラス5連覇を成し遂げたヴァレンティーノ・ロッシである。イタリアのマスメディアはロッシの一挙手一投足に注目し、週に最低1度はスポーツ誌の一面をロッシの記事が飾るほどの人気を誇る。

2003年に日本人のMotoGPライダー、加藤大治郎がレース中の事故で亡くなった時は、生前住んでいた町の通りに彼の名を冠して「加藤大治郎通り」として死を偲ぶなど、イタリアにおけるロードレースの社会的地位の高さがうかがえる。